本文へジャンプ


2009年3月15日 志音会演奏会の記録



志音会演奏会の感想


飯沼信義(9回卒)   

            

志音会の皆様、春暖の好季をいかがお過ごしですか。
事務局から、「3月のコンサートについて、思うところを書いて下さい」とのご要請をいただきました。
今回は「スペシャル・アドヴァイザー」などというオッカナイ肩書きをいただいてしまいましたが、そのくせ、ろくなお手伝いもせず、しかも、私の編曲作品のステージも組んでいただきました。まことに幸せなことと感謝しつつ、ご下命ですので前半で各ステージについての感想を、後半では志音会についての私見を、思いつくままに書かせていただくことにいたします。



T現役合唱班
 最初のステージ、現役の皆さんの「雨」(高田三郎/「水のいのち」より)は、この作品の、音と言葉に託された繊細な曲趣を実にデリケートに表現していたと思います。冒頭、歌い出しの音量の少なさに一瞬不安を覚えましたが、それは後半での予想をはるかに超えたエネルギッシュで感情の載った圧倒的な表現で完全に払拭され、大いに納得させられました。2曲目の性格的、個性的な作風の作品(千原英喜/どちりなきりしたん)では、キリリとした造形感に満ちた解釈と演奏に心惹かれました。前者を「草書的表現」と譬えれば、後者は「楷書的」。その組み立ても見事だったと思います。人数的にはこじんまりとした規模の混声合唱団でしたが、ピアニストの当を得た関わりを含めて、透明感のある、凛として清々しい好演を満喫できました。


U現役室内楽班
 第Uステージと第Wステージ。「現役室内楽班」によるVivaldiもまたSoliとGlossoがその雰囲気を醸し出し、憶せずに堂々と楽曲の楽しさを聴かせてくれました。1校の生徒だけでVla.もVc.をもバランスできる編成を有し、普通高校での厳しい勉学の間にここまで高いレヴェルの演奏ができることは特筆に値することです。指揮者の長野さんも「なかなか!」と褒めておられました。ご承知のとおり、昨今は「アンサンブル・コンテスト」などという催しもあって、中高生の室内楽に対する関心や演奏技術は私たちの頃では考えられなかったほどに高水準なものになりました。しかし、このような場での「プロまがいの演奏」の背景には、ともすれば指導者の徹底したサポートや、身の丈以上に高額な楽器に拠るといったこともあるのが事実です。それに比べて、自分たちの力で可能性に挑むという深志弦楽団の伝統は、これらとは趣を異にするものではないかと思いますし、そこには受け身でない音楽への憧憬と実践、そして特別な喜びが在るのではないかと思います。第Ⅳステージで「志音会オーケストラ」の一員としてMozartやTchaikovskyにも共演してもらえたことも大きな経験だった筈です。今後の活動を大いに期待したいと思います。


W志音会オーケストラ
 第Ⅳステージの「志音会オーケストラ」の2曲は、どこに出しても引けをとらないほどにプロフェッショナル・ライクな選曲でした。指揮者の長野さんも当初は「どこまで出来るか・・・」と、かなり不安を抱いたようでした。しかし、いつものごとく、本番直前の上昇気流にのって潜在する楽員の力をぎりぎりまで発揮できたのではないかと思います。Vla.以下の低弦が人数的にも充実していたために、時に音が混濁気味になりましたが、第一、あれだけのメンバーを擁した弦楽合奏で常時隅々までクリアなサウンドを出せというのは至難の業だと言わねばならないでしょう。やや濁りがち、曇りがち、かつ下半身肥大型のトーンがTchaikovskyには有利に働いた部分が多かったのではないでしょうか。重く弓を押しつける部分には、まさに「楽曲が求めているソノリティ=Tchaikovsky sound」が確実に鳴っていました。反面、全体に澱みなく清澄な流れを必要とするMozartにおいては、ややマイナスになったことは否めませんが・・・。
言わずもがなのことですが、「器楽合奏」というものには過酷なばかりに技術的完成度が問われるという宿命が付いて回ります。このことは世界屈指のオーケストラの団員にとっても同じで、日々のストレスで時に心身を傷つけるほどのものです。昨年暮れでしたか、ベルリン・フィルとラトルのアジア6都市ツアー(2002年頃?)のドキュメンタリー映画を渋谷のミニ・シアターで見ましたが、団員(研修生を含めて)の孤独で厳しい練習と競争の日々は、まさに凄絶といってもいいほどのものでした。プロでもアマでも、楽器を凌駕しようとする、そのメンタリティーには差異はありません。第U、第Wステージを聴きながら、合唱における人声に比べて露見性の強い楽器操作上の技術という課題にめげることなく、今回、合奏に参加された全員が、各自の楽器からより多くの至福な瞬間を引き出そうと、気概を集中させていることに私は胸を熱くしていました。トップから後尾までよく弓が動き、曲の高揚とともに身体も柔軟に動いて行くのがよく分かりました。繰り返しになって恐縮ですが、そのような心の高まり、情動の迸りは結果として、MozartよりはTchaikovskyに、その効果がより多く発揮されたのではないかと思っています。来年度に計画されているという「運命」「未完成」という一大企画に向けて、志音会弦楽オーケストラの組織が活動の喜びを実感しつつ、向上のための厳しさと対峙し、限られた練習条件を英知をもってくぐりぬけ、有効な成果に繋げながらその実現に至ることを心から期待しています。


V志音会合唱団(石川先生指揮)
 第Vステージでは、当日に全員が揃うことによって、はじめて「声の総体」が見えるということの「ワクワク感」、別な言い方をすれば「怖さ」を皆さんが体験されたのではないでしょうか。私自身も編曲者として全く同じ想いでした。しかし、当日、与えられたほんの僅かなリハーサルの間に、ステージの構成と運びに不可欠な演奏上の意図と表現のプランを、前後の曲趣曲想などとの関係を含めて組み立てていただけたのは、さすがに深志の頭脳、深志の理解、深志の創意・・・と、深く感じ入った次第です。


V志音会合唱団(吉野先生指揮)
 このような日本の名歌には叙景と抒情の歌い分けが大変重要かつ有効ではないかと考えます。
「おぼろ月夜」や「夕やけこやけ」に漂う、薄く漂う紗のような空気感・・・、あの場でも申し上げましたが、それらには大気の気温や湿度までがイメージされるべきでしょう。また、「浜辺の歌」や「ふるさと」における、人間の「良心」や「心情」への同調と響振。これらが、ひとつの合唱団の声によって人間味豊に描き分けられたら、それは何ともすばらしいことだと思います。そのためのひとつの可能性が「弱唱」(
P〜PP )を生かした、ダイナミックな奥行きの幅を持つ表現にあるように思います。次なる機会には、とびっきり上質のピアニシモと、それに対置される精神的にも官能的にも深みのあるフォルテに挑戦してみましょうか。それにしても中島さん、有賀さんのピアノを含めて、石川さん、吉野さんのもとに豊かな詩情を描いてくださった志音会合唱団の皆様の心に沁み入る6曲の演奏に満足しています。まことにありがとうございました。


X混声合唱とオーケストラ
 第XステージではBachとMozartがとても質の高い演奏でした。オケとのバランスも見事でした。Straussでは合唱、オケともに、もっともっと感興の趣くところをのびやかに発散放出してもよかったのでは・・・と感じましたが、思えば、当日は午前10からの断続的なリハーサルに続く本番へと、長時間にわたる声の酷使でお疲れもでたこともありましょう。







今回の志音会で特に評価されるべきは、現役の生徒さんが合唱に合奏に多数参加してくれたことだと思います。このことが実現できたことの背景には、まず、会員であり、現に深志高校の教員であられる石川先生の大きなお力添えがあったことは想像に難くはありません。また、120周年の折に、当時の有田会長さんがこれからの志音会の在るべき姿、進むべき道として提唱された「現役の参加を基本とする」方向づけが、歴代の会長さん始め、役員の方々にしっかりと継承され、今回見事に結実したという意味でも、大きな成果だと言えましょう。幅広い年齢層が肩寄せて立ち並ぶステージを見ていると、老若男女が一つの音、ひとつの言葉に渾身の思いを寄せて歌い奏でる、まさにその「人間ステージ」が聴き手の聴覚形成に反映し、より感動を高めていたと言えます。このような風景が本来の志音会の姿だといってよいのではないでしょうか。

 その「人間ステージ」を支える屋台骨としての「音楽」についてですが、私自身がそれを生業とする立場にいるためか、いつも、やや特別な位置を与えられているように感じ、そのことを面映ゆく感じることも間々あります。うまく表現できないのですが、一方では一志音会員として全く隔たりなく様々な企画に参加させてもらって楽しませていただきたいと思いつつも、反面、プロの端くれに居るという意味で、果たさなくてはならない役割を仰せ使っているのではないかという自覚もあって、そのような観点にたって振り返れば、これまで私の立つ位置が果たして良かったのか悪かったのか、あるいは反省すべき点も多々あったのでは無いかと思案しているところでもあります。

 ただ、このことだけは言えるのではないでしょうか。即ち、プロにあってもアマチュアにあっても、自らのパフォーミングの質が高ければ高いほど、そこに身を置くことの充実感は高まり、結果として結束力も持続力も堅固なものになるということ。その意味で、毎回のコンサートや諸々の企画において、我々のもつ力量を限界まで示すことを目標とすべきことには異論のないところだと思います。我々の組織が有する本来の願望をよく理解してくれ、その線にそって尚、潜在能力を限界まで引っ張りだしてくれるプロ(今回の長野さんのような)の力を借りることも、そうした意味で大切なことだと考えます。音楽上の技術的な面のみをしゃにむに高めるという、その合目的性だけが突出して志音会員の個々が持つ多様な事情に無理が及んだり、様々な参加の在りようを内含する志音会という環境を無視したり顧みなくなるようなことが出てくれば、それは会の存続を危うくしかねません。会の運営に当たられている会長さん以下役員の皆様がたの御苦労は、ひとえにこの点にあるのではないかとお察しする所以です。今回は120周年とか130周年とかの「冠」もなく、いわば純粋に私たちの志音会の希求するところによって企画されたコンサートでした。しかも、どのステージも見事な演奏で終了できたことはなんと幸せなことであったことか、推進の役を一手に引き受け、献身的な奉仕で会を支えてくださった林会長さん、事務局の皆さん、吉野さん、石川さん、松本さん以下、すべての役員の方々に深く感謝しつつ、いま、あらためてコンサートの余韻を味わっているところです。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。




【写真提供:細萱 博信氏(ほそがや写真事務所)】












「これまでの演奏会」へ

HOME

 
  1. 無料アクセス解析
inserted by FC2 system